From:堀口寿人
セイロンティーを飲みながら
あなたは自己実現と聞いて、何をイメージするだろうか?
おそらく、
- 夢を叶える
- 目標を達成する
- 成功する
みたいな意味じゃないだろうか?これらの意味も間違っているわけじゃいんだけど・・・・
実際の意味は、ちょっと違う。実際の意味はもっと泥臭くて、あいまいで、しっくりこない感じがあるからだ。
本当は、僕はこの記事を書くのをためらった。というのも、自己実現の意味を知れば知るほど、「自己実現って言葉に意味あるの?」と思うようになったからだ。それでもよければ、この記事を読み進めて欲しい。
自己実現の意味
自己実現を心理臨床大辞典で調べるとながーい説明が書かれている。ただ、そのながーい説明の要点を一言で要約すると次のようになる。
可能態から現実態へ移行させること。
ここで、またまた問題になるのが「可能態(かのうたい)って何?現実態(げんじつたい)って何?」って話だ。
元々、可能態や現実態という考え方は、哲学の考え方で、古くはアリストテレスまでさかのぼる。
アリストテレスの可能態と現実態
例えば、アサガオの種をイメージして欲しい。アサガオの種を土に埋めると、その種から芽が出て、いずれアサガオが咲く。ヒマワリが咲くことはない。
ということは、アサガオの種には、将来アサガオの花を咲かせるような潜在的な力が含まれていると考えられる。
このときの、アサガオの種が可能態(デュナミス)で、アサガオの花が現実態(エネルゲイア)というようなイメージだ。
ただ、ここで一つ注意が必要だ。
というのは、可能態も、現実態もプロセスを意味しているからだ。
どういう事かというと
- アサガオの種が可能態、アサガオの双葉が現実態
- アサガオの双葉が可能態、アサガオの本葉が現実態
- アサガオの本葉が可能態・・
というように、あくまで、可能態と現実態はプロセスの上に成り立っているものだ。だから、「これが絶対に可能態」「これが絶対に現実態」というような絶対的なものじゃない。
ただ、現実態に関しては、最終的なゴール(エンテレケイア)があり、そのゴールに関しては絶対的なものと考えられる。
要するに、アリストテレスは、「可能態(デュナミス)には、現実態(エネルゲイア)になる可能性が含まれている。その可能性を十分に発揮しつくしたときに、最終的なゴール(エンテレケイア)に達する」と考えた。
ただ、あくまで可能態と現実態というのは、生命に限ったお話だ。例えば、石を放っておいたらどうなるだろう?一人でに彫刻になるだろうか?
そう。ならない。ということは、石は可能態でも現実態でもない。つまり可能態や現実態は生命体のある状態を示しているわけだ。
アリストテレスから自己実現へ
「このような、可能態と現実態の原理が、人間の精神的な成長にも適用されるのでは?」という考えで生まれたのが自己実現という考え方だ。
心理学が生まれたのは1879年。それから、数多くの研究者が自己実現の研究に取り組んだ。
ただ、ご覧のように、もともとの可能態と現実態の考え方も、定義がはっきりしない、フワッとした考え方だ。
自己実現には、そのフワッとしたあいまいな考えがベースにあるため、研究者によって色んな考え方が生まれることになった。その中でも特に重要な心理学者の考え方を見てみよう。
カレン・ホーナイの自己実現
ホーナイはフロイトに影響を受けた、新フロイト派の女性精神療法家だ。ホーナイは、自己実現を次のように捉えた。
一人ひとり独自な「真の自己」があり、真の自己が成長する過程が自己実現である。そしてそれは、人間関係能力の発達に他ならない。
これをさっきの基本形に当てはめて考えてみよう。すると、こうなる。
- 可能態→人間
- 現実態になるための可能性→真の自己
- 現実態→真の自己が成長した状態(=人間関係能力が発展した状態)
ホーナイは人の中に「真の自己」が存在すると仮定したわけだ。
ただでさえあいまいな可能態や現実態という考えに、さらに正体不明の「真の自己」が登場して、「何でもありだな!」と思うのは僕だけだろうか・・・。
では、次は欲求階層説で有名なマズローの自己実現を見てみよう。
アブラハム・マズローの自己実現
欲求階層説
マズローは、アメリカの心理学者で、欲求階層説というモデルを提唱したことで有名だ。下の図を見て欲しい。これが欲求階層説のモデルだが、このモデルでは人の欲求を5段階に分ける。
まず下から生理的欲求。これは、おしっこがしたいとかご飯を食べたいとかそういった欲求だ。
それが満たされると次は安全の欲求を持てるようになる。これは、危険を避けて安全なところで暮らしたいという欲求だ。
それが満たされると、次は所属と愛情の欲求が生まれる。これは、ある特定のグループに所属していたいという欲求だ。
それが満たされると、次は承認の欲求が生まれる。これは、人から認められたいという欲求だ。
それが満たされて初めて人は自己実現の欲求を持てるようになる。これが、自己実現を目指したいという欲求になるわけ。
この5つのうち、下から4つまでの欲求を「欠乏欲求」、自己実現の欲求を「成長欲求」と呼ぶこともある。というのも下から4つの欲求は、現状に不満があって満たされないものを満たそうとする欲求だからだ。自己実現の欲求だけが、今よりさらに高みを目指す欲求として区別するわけだ。
このモデルをもとにして、マズローは自己実現について次のように考えた。
マズローの自己実現
自らの内にある可能性を実現して、自分の使命を達成し、人格内の一致・統合を目指すことである。そのために人は欠乏欲求が満たすことで成長欲求が発動される必要がある。
これを自己実現の基本形に当てはめて考えると、こうなる。
- 可能態→人間
- 現実態になるための可能性→成長欲求(自己実現欲求)
- 現実態→自分の使命が達成され、人格内が一致・統合された状態
で今見ていただいて分かると思うが、ホーナイにしても、マズローにしても、「どうしたら可能性を発動させて自己実現できるのか?」という方法までは、明らかにしていない。
実際に、他の自己実現の研究者に関しても、だれも自己実現の方法まで説明できている人はいない。しいて言えばロジャーズだろう。
カール・ロジャーズの自己実現
実現傾向と自己実現傾向
ロジャーズは、世界的なカウンセリングの権威で心理療法家で、1982年、アメリカ心理学会による調査「20世紀にもっとも影響の大きかった心理療法家」では第一位に選ばれた人物だ。
彼はまず、自己実現の前提として実現傾向と自己実現傾向という考え方を打ち出した。
- 実現傾向とは、生命体が自分を無意識的に維持強化しようとする、生まれながらに持っている潜在能力みたいなもの。自然治癒力もその一つ。
- 自己実現傾向とは、自己を実現する目標に向かった意識的な努力のこと。(Rogers,1963)
これを踏まえてロジャーズは自己実現をこう考えた。
ロジャーズの自己実現
実現傾向と自己実現傾向がケンカすると葛藤が生まれる。(不一致)
例えば拒食症の人をイメージして欲しい。実現傾向と自己実現傾向に口がありませんが、仮に話せるとしたらこう言うだろう。
- 実現傾向「もっと体に食料を!」
- 自己実現傾向「もっと断食してキレイにならなきゃ!」
ロジャーズによると、こうやって2つの実現傾向がケンカしあうとき、僕たちは葛藤を感じるわけだ。さらにロジャーズはこう考えた。
一方で実現傾向と自己実現傾向が協調しあうと一元的実現傾向が発動され、人は自己実現に向かう。その結果、人は心理的に自律し統合されていく。
これを自己実現の基本形に当てはめて考えると、こうなる。
- 可能態→人間
- 現実態になるための可能性→実現傾向+自己実現傾向(一元的実現傾向)
- 現実態→心理的に自律し統合された状態
では、実現傾向と自己実現傾向をケンカさせずに、一元的実現傾向を発動させて自己実現に向かうにはどうしたらいいのか?
その方法こそが、ロジャーズが考えた「セラピストの3条件」だ。
セラピストの3条件
セラピストの3条件とは「セラピストがある条件を整えることで、クライエントが自己実現に向かう」という考えに基づいている。その3条件が次の3つだ。
- セラピストがクライエントの気持ちをまるで自分も経験しているかのように共感的に理解すること
- セラピストがクライエントに無条件の肯定的な関心を示していること
- セラピストが自分の経験・感情をあるがまま受け止めていること
こんな感じで、セラピストの力を借りることで、僕たちは心理的に自律し統合された状態へどんどん向かうわけだ。それがロジャーズが教えた自己実現への道だ。
さて、これで自己実現について納得できただろうか?
あなたが僕と同じ感覚を持っているなら、まだまだ頭の中に「?」が浮かんでいるんじゃないだろうか?
あなたの、ご想像通り、自己実現という考え方には問題がある。
自己実現の問題点
そもそも、ベースになっている、アリストテレスの可能態と現実態という考え方からしてあいまいだ。何となく分かるようで分からないフワッとした感じと言おうか・・・。
例えば、僕たちは、子供の頃より明らかに世の中の事を理解しているし、精神的にも成熟していると言えるだろう。そういう意味では、過去の自分が可能態で、今の自分が現実態。今の自分が可能態で、未来の自分が現実態という風に進歩していく感じはまだ分かるとしよう。
でも、どの研究者の考えに関しても言えるが、
- 可能態に含まれる可能性とは何か?
- 最終ゴールとは?
ということについて全然定義できていない。
要するに、「僕たちの中には生来どんな可能性があって、どこに向かっているのか?」ということをハッキリと説明している研究者がいないわけだ。
だから、自己実現という概念はあいまいになるし、色んな人が色んなイメージを持ってしまうわけだ。
仏教的自己実現
仏教に自己実現という考え方はない。ただ、このまま自己実現のテーマを終わらせるのは、あまりに釈然としないので、仏教的に自己実現の概念を考えてみようと思う。
仏教のゴールは明白だ。それは「悟り」だ。悟りとは悩み・苦しみが全くなくなった状態のことを意味する。これをベースに、仏教では、次のように教えている。
人間は悟りに至るための高い潜在能力を持っている。この潜在能力を菩提(Bodhi)と呼ぶ。菩提は悟りの智慧を意味する。すなわち人間をブッダ(悟った人)に変える智慧である。(パユットー,2012)
この教えに沿って考えると、
- 可能態に含まれる可能性とは何か?→菩提
- 最終ゴールとは?→悟った人
あっさりと答えが出てしまった。
ちなみに、仏教では人間という可能態から、悟った人という最終ゴールへ至る道も詳しく解説されている。その方法が、八正道だ。八正道については、また別の機会に説明しようと思う。
まとめ
自己実現とは、今の自分(可能態)がより成長した自分(現実態)になり、最終には完全に成長しきった状態(ゴール)に達することだ。そして人間にはゴールに達するための可能性が含まれていると考えられる。
しかし、「僕たちの中には生来どんな可能性があって、どこに向かっているのか?」をはっきり説明できている研究者は今だいない。だから、自己実現という考え方はあいまいで、そのままだとあまり役に立たない。
しいて言えば、自己実現を仏教的に考えた方が、より具体的で明快だろう。